^句

October 18102004

 コスモスと少年ほかは忘れたり

                           藤村真理

語は「コスモス」で秋。いつ頃のことだったのか。その場所がどこであったのか。その少年は誰だったのか。さらに言うならば、あれは現実の情景だったのか、それとも夢だったのだろうか。ともかくコスモスの咲き乱れるなかに、一人の少年がぽつねんとたたずんでいた。それがこの季節になると、今も鮮やかな印象として蘇ってくる。しかし、その他のことは何も思い出せない。別にもどかしいというのではなく、むしろそのほうがすっきりとした気分だ。「忘れたり」の断言が、作者のそんな気分を物語っている。心理学的には説明がつく現象かもしれないのだが、こうした種類の記憶は誰にでもありそうだ。少なくとも私には、ある。このところ自分の過去を、言葉ではなく、なるべくビジュアルに表現することはできないものかと考えてみている。ほんのお遊びみたいなものだが、その過程で、あらためて記憶というもののキーになっているのは、ほとんどが映像だということに気がついた。言葉は、映像の周辺でうろうろしているに過ぎない。だから余計に掲句に反応したところもあると思うけれど、人間の得る情報の70パーセントは視覚からによるという説もある。いささか目が不自由になってきて、パーセンテージはともかく、見えること、見ることの大切さが骨身にしみてわかってきた。『からり』(2004)所収。(清水哲男)


January 2912006

 凍つる日の書架上段に詩集あり

                           藤村真理

語は「凍つ(凍る)」で冬。自宅の「書架」ではあるまい。「凍(い)つる日」を実感しているのだから、外出時でのことだ。図書館でもなく、書店の書架だと思う。凍てつく表から暖かい書店に入り、ようやく人心地がついたところだろう。まずはいつものように関心のある本の多い書架を眺め、ついでというよりも、身体が暖まってきた心のゆとりから、普段はあまり注意して見ることのない「上段」を見渡したところ、そこに立派な「詩集」が置いてあった。著名詩人の全詩集のような書物だろうか。高価そうな本だし、手を伸ばしても届きそうもない上のほうの棚のことだし、中味を見ることはしないのだけれど、その凛とした存在感が表の寒さと呼応しあっているように感じられた。このときに「上段」とは「極北」に近い。著者が孤高の詩人であれば、なおさらである。ぶっちゃけた話をすれば、詩集が上段に置いてあるのは売れそうもないからなのだが、それを存在感の確かさと受け止め変えた作者の心根を、詩の一愛好者としては嬉しく思う。ただ常識から言うと、一般の人にとって、詩集は遠い存在だ。せっかく字が読めるのに、生涯一冊の詩集も読まずに過ごす人のほうが圧倒的に多いだろう。「上段」どころてはなく、いや「冗談」ではなく、多くの人々にとっての詩集は、「極北」よりもさらに遠くに感じられているのではあるまいか。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


September 1392007

 月影の銀閣水を飼ふごとし

                           藤村真理

めて銀閣をみたときは金閣の華やかさに比べて質素で地味なそのたたずまいに物足りなさを感じた。それはきっと昼間だったからで、金閣が太陽の化身だとすれば、銀閣は夜の世界を統べているのかもしれない。銀閣の前に設えた白砂の庭は銀沙灘と呼ばれ波に見立てた筋目がくっきりとつけられており、傍らには月を愛でるため作られた二つの向月台がある。「月影」は月の光そのものと、月の光に映し出された物の姿と、辞書にはある。掲句の場合は冴え冴えとした月に照らし出された銀閣のたたずまいを表しているのだろう。白砂には石英が含まれており、月光を受けるときらきら反射するらしい。「水を飼ふごとし」と表されたその様は、夜の銀閣が月の光に波音をたてる白砂の水を手なずけているようだ。趣向を凝らした言い方ではあるが、現実を超えた幽玄な銀閣の姿を言い表すには、このくらい思い切った表現を用いても違和感はない。いつも観光客の肩越しにしか見られない場所であるが、夜中にそっと忍び込んで月明かりの銀閣を見てみたい。そういう気分にさせられる句である。『からり』(2004)所収。(三宅やよい)




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